自分本位という話から
どうも、革靴大好き山本です。
大親友の記事を読んで、「自分本位」という話から私も少し書いてみようかなと。
昨日は私が以前おつきあいしていた方の誕生日でした。
1年前の一昨日から東京に旅行へ行き、1年前の昨日はホテルのスタッフさんにも協力してもらって誕生日を祝い、1年前の今日は夜行バスで京都に戻って、寝ぼけ眼のまま家に帰り、2人で手を握りあってまた眠りにつきました。
あのときは、この時間が一生続くと思っていたけれど、その1ヶ月後に私は当時のバイトを辞め、恋人からは元から存在しなかったかのように無視されるようになりました。
私は恋人との将来を見ていました。
クリスマスはどこに行って、何をあげて、次の誕生日はあれをしようこれをしよう、記念日には何をしようかな、なんて。
卒業したら頑張って稼いで、楽をさせれたらいいなとか、次引っ越すときは一緒に住もうねって話をしていたから、どんな家がいいかなとか、何十年後かにはお店を出して、好きなように料理ができる場所を作ってあげたいなとか。
でも、全て無くなりました。
相手にとっては、毎日大学へ行って遊んで暮らしているような私の存在は鬱陶しく、疲れて帰って構われてもしんどく、喋り出せば話は長くて退屈で、今は忙しすぎて未来なんか考える暇はないなんていう存在だったようです。
そもそも、バイトのシフトを考える上で都合が良かったんでしょう。
バイトを辞めた途端何も話してくれなくなり、無視、無視、無視の日々でした。
自分がかわいそう、という話をしたいわけではないけれど、ただ事実を並べて書いてみたら、すごく悲しくなりました、今まさに。
私はいつだって相手のことを考えているつもりでした。
いつだって「つもり」な自分が悲しくなりました。
こうしてあげたら喜ぶんじゃないか、楽なんじゃないか、そんなこと毎日考えていたけれど、肝心な、「相手の言葉を聞く」ということを忘れていました。
話してくれなかった、とも言えますが。
相手の声に耳を傾けることがなくなれば、それは全て自分本位な考えになってしまうんだろうなと。
たとえ相手が話すのを疎んでも、きちんと会話をしようとする姿勢だけは忘れちゃいけないことなんだろうと、そこだけは自分本位でいなければならないと、けっこう強く思ったりした山本でした。
結局人は、自分本位じゃなきゃ生きられないのかもしれませんね。